佐藤春夫《田园的忧郁》书摘 - 一定有着某种极为美好的东西

他常常心不在焉地这么想:“在什么地方一定有着某种极为美好的东西,它能把人,把自己引到一个一切都与这个世界的组成是完全不同的另一个世界里去,或是会使展现在自己眼前的这个邋里邋遢的陈腐的世界焕然一新,成为一个从根本上脱胎换骨的崭新的世界。”
他每天晚上要琢磨这样的问题:“难道太阳下面真不会有新东西吗?那末,世上的人们究竟是指望着什么而生存的呢?难道这些人只是卑怯地把自身的空想建立在他们各自的愚蠢上,却根本不知道这空想乃是梦想而勇敢地生活着的吗?不论是智者、愚者,不论是哲人、商人,都是这样生活着的吗?人生真的有值得一生的价值吗?死呢?也有值得一死的价值吗?”
既然这种疲惫不堪的郁悒和厌倦已经根植在他的心灵深处,那末,作为心灵的窗户的眼睛所看到的世界万物当然全都是极其无聊的了。他很明白:要想在这种陈腐的世界里过一种崭新的生活,唯一的办法就是由自己来扭转自己的心境,别无他途。
然而,应该怎么做、用什么方法才能使处于那种精神状态下的自己焕然一新呢?他的父亲在那封大发雷霆的信中呼叫什么“大勇猛心”,他不明白这是指的什么,也不知道该到何处去把它找来,以便移植到自己心里。他不知道怎样才能使自己的内心变得活跃起来。这一切,他全然不知道。所以,不论是乡村还是城市,只要是在这地球上,就没有他安居的乐园,根本没有。
“只有去听万物之主的神的旨意了……”
他想,也许只好这么认为了吧。可是他的心并没有被砸碎。只是萎靡不堪而已。

何か――人間を、彼自身を、すべての物がこの世界とは全く違つたものから出来上つてゐる別世界へ引きずり上げて行くやうな、或はただ彼の目の前へだらしなく展げられてゐるこの古い古い世界を、全然別箇のものにして見せるやうな、或はそれを全く根柢から覆してめちやめちやにするやうな、それは何でもいい、ただもう非常な、素晴らしい何ものかが、どうかして、何処かにありさうなものだ。彼はしばしば漫然とそんなことを考へて居た。ほんとうに「日の下には新らしいものがあることは無い」のか。さうして一般の世間の人たちは、それなら一たい何を生き甲斐
にして生きることが出来て居るのであるか? 彼等は唯彼等自身の、それぞれの愚かさの上に、さもしたりげに各の空虚な夢を築き上げて、それが何も無い夢であるといふ事さへも気づかない程に猛つて生きてゐるだけではなからうか――それは賢人でも馬鹿でも、哲人でも商人でも。人生といふものは、果して生きるだけの値のあるものであらうか。さうして死といふものはまた死ぬだけの値のあるものであらうか。彼は夜毎にそんなことを考へて居た。さうして、この重苦しい困憊しきつた退屈が、彼の心の奥底に巣喰うて居る以上、その心の持主の目が見るところの世界万物は、何時でも、一切、何処までも、退屈なものであるのが当然だといふ事――さうしてこの古い古い世界に新らしく生きるといふ唯一の方法は、彼自身が彼自身の心境を一転するより外にはない事を、彼が知り得た時、但、さういふ状態の己自身を、どうして、どんな方法で新鮮なものにすることが出来るか。彼の父の慍つて居る手紙のなかの、「大勇猛心」と呼んで居るものはどんなものか。それを何処から齎してどうして彼の心へ植ゑ込むことが出来るか。どうして彼の心に湧立たせることが出来るか。それらの一切は、彼には全然知り得べくもなかつた。さうして田舎にも、都会にも、地上には彼を安らかにする楽園はどこにも無い。何も無い。
「ただ万有の造り主なる神のみ心のままに……」
と、そんなことを言つて見ようか。けれども彼の心は、決して打砕かれて居るのではなかつた。ただ萎びて居るだけである……。

佐藤春夫《田园的忧郁》 ,吴树文译
上海译文出版社
*佐藤春夫『田園の憂鬱』

精彩点评:
楸子睢啊:柏拉图在自己的哲学理论中构造了理型世界的概念,人们的灵魂生于理型世界,寄居人的躯壳,要花一辈子的时间走在归乡的路上。所以在现实世界寻不着故土是一件正常的事,我的灵魂驾驭着这肉体凡胎,寻找理型世界的归途,永不止步。

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